| 六 曜 |
| 六曜は、六輝・孔明六曜とも呼ばれ、六曜星の略で、「りくよう」と読みます。六曜の起源などは不明ですが、中国の六行説から出たものではないかとも言われています。 日本では江戸時代末期に流行し始め、明治6年の太陽暦の採用による「月火水木金土日」の七曜に改暦されたときに、秘密出版の暦の「おばけ」の暦注として使われるようになり、最初は単に日にちを区別するだけのものだったようですが、その後吉凶付けがされ、太平洋戦争後、吉凶の判断の暦注として盛んに使われるようになった非常に新しいものです。現在は暦のお日柄はこの六曜が最も用いられています。 六曜は、「先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口」を繰り返しますが、旧暦の月の朔日(第一日)によって最初の六曜が変更されます。 正月・7月朔日:先勝 2・8月朔日:友引 3・9月朔日:先負 4・10月朔日:仏滅 5・11月朔日:大安 6・12月朔日:赤口 このため太陽暦の月の途中で旧暦の月が変わり、その日から旧暦の朔日の六曜が始まるため、そこで太陽暦の六曜の順番が狂います。 |
||||||||||||||
|
| 七 曜 星 |
| 現在一般的に使われている7日を単位とした一週間は、日常生活に欠かせないものになっています。七曜とは、日、月と木星・火星・土星・金星・水星の五星の総称で、またそれを使って吉凶を占うことをいいます。 七曜は、唐代にインド人不空が訳した経典「宿曜経」によるといわれています。「宿」は二十八宿、「曜」は七曜をさし、七曜・十二宮・二十八宿の関係と人の生日とによって一生の運命を占い、日々の吉凶を知る法を説く経典です。 日本には、空海が中国から持ち帰った「宿曜経」により、平安時代の初めに、朝廷で毎年編纂される具注暦に七曜が付記されるようになりました。 七曜は、ユダヤ教徒からキリスト教徒に伝えられ、それがしだいに中央アジアを経由して中国へキリスト教の布教とともに普及していったとされています。 古代インドで「七曜壌災決」という占星術が流行したそうですが、これが西洋へ渡って占星術となり、中国においては陰陽五行説確立の背景となったといわれています。 江戸時代までの七曜星は、主に七曜に付会されている吉凶の判断に使いました。江戸時代の雑書による一例は、次のとおりです。 |
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||
| 十干・十二支 |
| ●陰陽五行思想 地上にふりそそぐ太陽の光と熱は、1年を周期に増減し、人間の生活に影響を与える春夏秋冬の四季が生じます。この四季の変化を哲学的に説明するのが陰陽五行といわれています。 陽の気が上昇して天になり、陰の気が下降して地になりました。この陽と陰は、1年を周期に増えたり減ったりします。すなわち、陰は、「冬至=最大、夏至=0」、陽は、「夏至=最大、冬至=0」となります。この増減の間に、活力を持つ「木火土金水」が生じます。この「木火土金水」も1年を周期に増減し、このために春夏秋冬の四季が生じるとされました。すなわち、季節の増減と五行の関係はつぎのようになります。 春⇒「木」の芽が出る 夏⇒烈火のごとく暑く「火」を生じる 秋⇒「金」のように冷え冷えする 冬⇒「水」が氷や雪になる このようにこの世に存在する森羅万象を、陰・陽の働きによって説明し、それに五行を当てて判断する思想が中国でできました。この陰陽五行と暦法・干支が組合わさって多くの迷信が生み出されました。 この考え方は奈良時代に日本へ入り、江戸時代には「天には五惑星」、「地には五行」、「人の心には五常(仁礼信義智)」の日本の精神構造を作り上げるまでになりました。 陰陽五行のお互いの関係に「相生(そうじょう、そうしょう)」「相剋(そうこく)」「比和(ひわ)」の性質を持たせています。すなわち、「木火土金水」の五行の間には、お互いに2つづつ相順応して、水気により生じた木気は火気を生じ、火気は土気を生じ、土気は金気を生じ、金気は水気を生じる、また最初へ戻り無限に繰り返す関係があるとしました。そしてこれらは「水生木」「木生火」・・・などと表し、この関係を「相生」と呼びました。そして、それぞれにたとえば「木生火」は、「木と木を擦れば火が生じるのは自然の理である」などとして吉凶を占うことに使いました。「相剋」は「相生」とは逆に、「木気は、土気に剋ち」などと相手を剋く(あいてに勝つ)関係を示し、「木剋土」「土剋水」などと表し、それぞれに自然の理を付けました。「比和」は、「木気は木気を盛んにする」などと陰陽偏在してますますよいとかますます悪いとかに使われました。 ●十干(表1参照) 十干は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の総称です。 十干の起源は、中国の殷(紀元前14〜15世紀)あるいは漢の時代といわれ、10日を一句として占う卜旬(ぼくじゅん)に使われていました。その後、周の時代になって、十二支と組み合わされて十干十二支(六十干支)となり、日・年を表すようになったとされています。漢の時代になると、陰陽五行説と結合して、兄・弟(え・と、干支)を示すようになりました。 暦で十干は、年と日を示し、その他日本では学業の成績の順列に使われていたり、危険物や酒類の種類などを示すのに使われています。 単に順序を示す数詞でしかなかった十干が、十二支、陰陽説、五行説(木火土金水)などと結びついて、複雑な読みと意味を持つようになり、やがて日や年・月の吉凶や縁起、また、さまざまな迷信や俗説を生じさせる要因になってきました。 ●十二支(表2参照) 暦法で十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の総称です。中国で十二宮のおのおのに獣をあてたのに基づくといわれており、つくられた年代ははっきりしませんが、十干よりも古く、すでに殷の時代(紀元前16〜12世紀)には使われていたともいわています。 十二支は、12カ月の順序を示すための符号でした。最初の月である正月が子というのが自然ですが、夏正(立春正月)が使われるようになって、正月は寅の月から始まるようになりました。日本でも旧暦の正月は寅の月から始まります。 ●十干・十二支(表3参照) 十干と十二支は、組み合わされて、60年で一巡する年、あるいは60日で一巡する日を表すほか、時刻や方角などを示すのに使われています。すなわち最初が「甲子」、60番目の最後が「癸亥」です。これを干支・十干十二支・六十干支・六十花甲子・えと・甲子などと呼ばれています。 歴史的に干支(えと)は、日に対するより年に対して使われてきました。日本では、60年以上使用された年号は昭和以外にはないので、たとえば、天平乙酉の年といえば、天平17年(745)のことだとすぐわかるそうです。また、天武天皇即位の際の内乱は、その年の干支をとって壬申の乱(672)と呼ばれ、明治維新の際の戦乱は戌辰の役(1868)と呼ばれるように干支は使われています。 また、時刻や方向での使い方は、たとえば、子の刻は午後11時より午前1時まで、丑の刻は午前1時から3時までと十二支を2時間ずつに割り当てています。また、子の方角とは北をさし、卯が東、午が南、酉が西をさします。子と卯の間に丑と寅があるから、丑寅の方角といえば、その真ん中で東北をさし、「艮」の一字でうしとらと読みます。同様に、卯(東)と午(南)の間に辰と巳があるから、たつみといえば東南をさし、「巽」の一字でたつみと読みます。以下、南西はひつじさるの方角で「坤」の字を当て、北西はいぬいで「乾」の一字でいぬいと読みます。また子午線とは南北線のこと、卯酉線(ぼうゆうせん)とは東西線などと使われています。 ●干支も単に方向や時刻を示すのであれば理解できますが、吉凶を占うなどになるとなかなか難しく理解できず、また説明もできません。暦法としてこういうこともあるのだ程度でみていただきたいと思います。 |
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| Page Last Updated 2003.1.24 This Page Since the 1st. of January 2003 go |